羽衣区の誕生と発展

明治後期の羽衣町は松山町から野中を経て沼久保へ向かう釣橋街道に沿って開けていたというものの、1890年(明治23年)発行の地図では町内一面が水田、その中に2、3軒の家屋のみが記されているだけという小さな集落だったことが伺えるといいます。
その後、1903年(明治36年)、山梨からこの地に移り住んできた若干20歳の青年、山下秀索(ひでさく)氏が製糸業を創業し、折からのヨーロッパ、そして大陸横断鉄道が完成したアメリカ合衆国向けの生糸産業は活況を呈し、事業は拡大の一途を辿り、大正6年に合資会社山下製糸工場を設立。それに伴い羽衣の町並みも栄えていきました。
山下製糸の登場が、その後、イオンモール富士宮がある場所に、日本ペニー紡績大宮工場(後オーミケンシ富士宮工場に名称変更)の繁栄への糸口となり、富士宮市全体の発展にもつながっていったともいえるのではないでしょうか。
しかし、山下製糸は太平洋戦争の戦禍厳しい昭和18年、戦争協力という名目の企業整備令により、製糸業を廃止し軍需工場に事業転換を余儀なくされるという運命に翻弄。1945年、太平洋戦争終結後、同社はフジ製糖を起業、事業を拡大。その後、同社を静岡市清水区に移転させると、新たにこの地に山下パルプを起業し、今日に至っています。山下秀索氏の事業が羽衣区の発展とともにあったといえるのではないでしょうか。

参考文献
市政施行50周年記念 なつかしの町名をたずねて 富士宮市の町名今昔